山羊に憧れたヒツジ

なんかもっと、日常を楽しんだらいいじゃん。

チャンスカード

モノポリー』っていう、経営バージョンの人生ゲームみたいなボードゲームで、チャンスカードってものがあります。

 

お金もらえるとか、払わなきゃいけないとか、そういうチャンス(機会)が生み出されるカードです。

 

日本ではチャンス、って言い方をすると「良いチャンス」をイメージしがちですが、チャンスは直訳するとあくまで「機会」なので、もちろん良いチャンスも悪いチャンスもあります。

 

最近、

ほんとに自分が (良い、悪いに関わらず) どんな機会に恵まれるかによって、そういった【外的要因】によって、

 

その人の思考が左右され、

その人の人生をも左右してしまう、

 

ということをしみじみと感じています。

 

私は今、

『日常の中にキラキラやワクワク、ドキドキ、小さな幸せを見いだせるような人を増やしたい』という思いがあります。 

 

日々を退屈に過ごしている人たち

マイナスな気持ちで過ごしている人が、

私の周りにはとてもたくさんいます。

それは、とてももったいのないこと。

 

環境はあるのに、

内的要因のせいで幸せを見いだせない。

 

けれど、それは

その人が悪いのではなく、

内的要因を生み出してしまった外的要因がある、

と私は考えています。

 

***

 

 

昨日、私は友人とLINEをしていました。

 

彼は、毎日が退屈だと言います。

心から楽しめることがなくて、

だから、何をやってもすぐに飽きてしまう。

 

小さい頃から、そうだった。

楽しいことはあっても、ほんとに心の底からワクワク出来たことがなかったのだ、と。

 

なんで?

と尋ねると

 

心の問題なのかな

と言いました。

 

内容のない心、

なんとなく全てを分かってしまっているような心、

なのだと言いました。

 

ぽっかり、

 

ひどく抽象的ではありますが

 

感覚的にどことなく

ぽっかりしてしまう心、

 

それは私も身に覚えがありました。

 

***

 

小学校の時は、

私も似たような感覚をもっていました。

たいていのことにたいして、「そんなもんでしょ」と。

 

正直、当時の私は

小学校で扱うほとんどのことは人並み以上にこなせて、

「それ位出来て当然」と言われてきたので

人よりエキスパートをとれることに

達成感や満足感をもったこともなければ、

 

それと同時に、

どんなに頑張っても越えられない壁がある

というのを思い知らせれる環境にいて、

 

たとえばテストで100点取っても

「このレベルのテストで満点は別に当たり前だし、だから自分が優秀な訳では無い。上には上がいる。」

そう考えてしまう可愛くない小学生でした。

 

また、

他人に対しエキスパートを取れることをやることで自尊心を満たしていた時期もありましたが、

他の子に真似されてしまったときに

 

「特技だと思っていたけれど、私じゃなくても出来るんだ…」

 「私のできることは、誰でも出来る」

と思うようになってしまいました。

 

 

結果、

自分の感情が満たされることはなく、

 

なんとなく心はぽっかりしてて、

ある程度世の中のことはわかったつもりで、

感動や熱中するようなことは

ほとんど無いまんま生きてきました。

 

 

***

 

そんな時に、

私には「いじめられる」という

チャンスカードが回ってきたのです。

 

「悪いカードやん」

 

と、思われるかもしれません。

 

けれど、私はいじめられたことによって

自分自身に向かい合うことができ、

「当たり前」は当たり前じゃない

ということを知りました。

 

世界は、理屈でなんて回っていない

ということを思い知らされたし、

それまで自分のことを悲観的に見ていたけれど

「悲劇のヒロインぶったってしゃーないし、

  自分は案外恵まれている」 

ということに気づかされました。

 

また、「ご機嫌をとる」

という、あまり理想的な形ではないにせよ、

誰かのために行動するということを始めました。

 

そこから、私の思考は変わっていったし、

その結果、私の人生も変わりました。

 

 

***

 

「悪い」「良い」というのは、

 

結局、一概には言えない。

 

たとえばモノポリーのチャンスカードで 

$50払わされたとします。

(モノポリーわからない人ごめんなさい)

 

お金を払わなければいけないのだから、

「悪いチャンス」だと捉えるでしょうか?

 

その代わりにそのひとコマ後にある

$500を払わなくて済んだ、

その代償だと考えれば「良いチャンス」

だったのかもしれません。

 

***

私は、

「いじめられる」というチャンスに

恵まれたおかげで、今があります。

 

しかし、私のその友人は、

きっとそういったチャンスに

恵まれなかったのでしょう。

 

私は、

「退屈だ」「来世に期待」

と今ある幸せを見出すことを諦めてしまっている彼に 

 

「幸せになって欲しい」。

 

けれど、

今の私には何が出来るのでしょう。

 

「私はいじめられて変われたから、

   彼もいじめられる機会に恵まれればいい」?

 

それは違うと思います。

 

たしかに、

マイナスな経験がもたらす影響は

とても大きいです。

 

私の周りで今前向きに頑張ってる人の多くは

マイナスの経験から気づきや学びを得て、

やりたいことを見出しています。

 

けれど、だから

ほかの人も1回大変な思いすれば

幸せ見いだせるよって言うのは

確実にエゴでしかないと思います。

 

では、幸せをなかなか見出せない人に

どういう機会を提供したら良いのか…

 

 

そんなことを模索する、今日この頃です。

 

 

少し前には、 

 

「レールの上で生きてて退屈だと思ってしまっている人には、レールから外れた生き方を提示してあげて視野を広げてあげれば良いよね」

という意見をお聞きして、

たしかになあ、ってなりました。

 

それもひとつの選択肢ですね。

 

 

とりあえず 

今挑戦していることが落ち着いたら、

一度心理学を学んでみようかな…

 

どういう声のかけ方が響くのか、とか

学びたいなあ。

 

 

では。

それって何匹殺してるの?

ほんとに今ふと思ったことです。

 

大食いのときとかの

肉何kgを、

 

牛さん🐮何匹分

ぶたさん🐷何匹分

にわとりさん🐔何匹分

 

って表記すればよいのではないかな?って。

 

大食いとか早食いとか、

命を頂いてて感謝するってことを

忘れてしまっている人が多いし

 

餓死をする子供たちが、

世界にはたくさんいる中で、

 

そういう風に過剰摂取することで

過剰生産の原因を作りだして

(売れたら、作っちゃうからね)

 

結果、間接的に、だけど

食料廃棄の原因をつくりだしてるのかな

って思ってるから

あんまり良くないなあって思ってて

どうしたらそういうの減らせるのかなー

って思った時にふと思いついて、

 

「牛さん〇匹も頂いてるのか!」

 

ってなったら、

ちょっとは命を頂いてる実感も

湧くのかなあ。

 

って思ったんだけど、、、

 

よくよく考えれば

(そんなにも考えてないけど)

 

大食いで1人が食べる量、

で換算しちゃうと

 

牛さん🐮とか豚さん🐷って

思いのほか体重が重いから

「なんだこんなもんか」

ってなりかねないなあ。。。

 

うーん。

 

難しい問題ですが

日本人の意識を変えることから

はじめていきたいです

海は燃えている

【海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~】

 

―――ぼくたちは生きている。悲劇のすぐそばで。

.

 

今まで私が見てきた多くの映画は、

非日常を映していました。

 

とつぜん事件が起こった、体が入れ替わった、

息子が攫われた、もののけの呪いをもらった、、、

 

けれど、この映画は日常を映し出していた。

 

 

特別なことなんて、なにもない。

そこには、繰り返される毎日と、冷酷な現実と、

愛と、希望と、祈りがありました。

 

みなさんは「海は燃えている」をご存知でしょうか?

 

ベルリン国際映画祭でグランプリをとったり

アカデミー賞でも外国語映画賞イタリア代表に

選ばれている作品だそうです。

 

当時のイタリア首相のマッテオ・レンツィは、

EU首脳会談において、

「人々を数ではなく、一人ひとりの人間として描いている。

この映画を見たら違った世界の見方が出来るはず。」と、

DVDを全首脳に手渡したそうだ。

 

けれど、

私がこの作品を知ったきっかけは

難民が出てきているということ。

そして、勝手に難民の悲劇を描いた映画だと

勘違いして映画を見ました。

 

 

 

見終わった最初の感想は、

「あ、なるほど、これで終わりなんだ」でした。

特に、特別なことなんて何もない。アクシデントもない。

 

ただ、当たり前のように、海に出て海の恵みを得る。

ただ、当たり前のように、ラジオで音楽を流す。

当たり前のように、友人と遊び、

当たり前のように、家族で食卓をかこむ。

 

そして、当たり前のように、今日も海で難民が救出される。

 

当たり前には、なってはいけない現実が、

そこにはあるはずなのに、

それはとりわけ特別なことではない。

 

そして島民と難民の人生が大きく交わることもなく、

それぞれ生きていく。

 

「それだけ死体を見たら、そろそろ慣れるだろ?」

難民を診療し、亡くなった難民の死検をおこなう医者は

そう言われたそうだ。

もちろん、慣れることなんてない。

それは、当たり前にはなってはいけないし、

慣れてしまってよい現実ではない。

 

けれど実際には

それだけ、当たり前のように多くの人が

難民になり、海に逃げたことで死んでいる。

もちろん全員ではない。

生き延びた人も、多くいる。

 

逃げなかったら、死んでいたから、海に出た。

 

生きるために、命をかけた。

 

生きるために、命をかける。

矛盾のように見えて、

そうしなければ生きていけない現実が、

私たちの見えないところに溢れている。

やるせない。

 

 

日常茶飯事のように

世界で起きていることの多くは、

当たり前、とくくられてしまう、のかもしれない。

 

けれど、難民や、餓死、出産での死亡、

そんな多くの問題は、

絶対に当たり前にしてはいけないし、

同時にそれらの悲劇は日常の隣にいる。

 

だから、隠れてしまうし、

「そういうもの」「だから仕方がない」

とくくられてしまいがち、

 

なのかな、と。

 

 

 

ぜひ一度、この映画を見てみてほしいです。

 

そして、日常、というもの

そして、世界で起きている悲劇、というものを

考えてみてください。

 

感じることは、ひとりひとり違うと思いますが、

なにかぽっかりとしたものが

心にの残るのではないかなと思います。

 

 

では。

mame hico

カフェマメヒコ、

知っている人は多いと思います。

 

ずっと行ってみたくて、

とうとう足を運んでみました。

 

酸味がなくて飲みやすい、

深煎れの珈琲と、

酸味をやわらかな生クリームが包み込む、

瀬戸田檸檬ケーキ。

 

暖かい光が照らし出す、店内と、

そこに流れる音楽。


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とても、素敵なお店でした。

 

こういう時、ほんとうに幸せで、

「このままでいいなあ」

「こうやってずっと生きていきたいなあ」

って思う

 

けれど、

 

それはきっと、

今の私が、学生という

人生の夏休みと言われているような身分で、

年齢的には自分に責任は出てきたと言えど、

まだ親の脛をかじり、

親や学生という立場に守られていて、

 

心に余裕を持つことが

 

容易いからなのだ

 

とも、思う。

 

穏やかな海にいるだけじゃなくて、

どんな荒波に揉まれても、

心の余裕と、

 

小さな幸せを持ち続けていきたい。

 

そういう大人になりたい。

 

大好きだった人たちが、

大人になって、社会人になって、

「あの時は若かったから」

「今は無理だなあ」

「しょうがないよ」

そんなつまらない言葉で、

完結させて、

 

あの時の彼らに溢れんばかりに 

つまってたキラキラが、

 

小さな瓶に押し込まれて、

心の奥底で少しずつ埃をかぶっていく。

 

それはとても、

とても悲しいことだし、

今、まだ私は社会の厳しさも

なんにも知らないから

綺麗事並べられるのかもしれないけど、

 

綺麗事を現実にすれば、

それは綺麗事なんかじゃない、し、

 

そんなに追い込まれなくても、

自分を追い込まなくても、

案外生きていける。

人生は、なるようになるし、

前向きな気持ちで進んでれば、

いつかは良い方向に転ぶ、

かもしれないし、

 

ころばなくても、

勝手に良い方向にとらえちゃえばいいじゃん。

 

辛いことだって

そりゃあ、いっぱいあるけれど、

 

とりあえず今は、

珈琲の香りに癒されときましょう。

 

幸せだなあ。

ぽっかり

ぽっかり、夜空に穴が空いた。

そこから神様が、覗いてるのかもしれない。

 

そんな穴を、私達は「綺麗だ」と謳う。

 

少し前、少し前に、

急に友達が亡くなりました

急性なんとか、

病名は忘れてしまったけれど

夜寝て、そのまま起きなかったそうです。

 

その友達のお母さんが

Twitterの存在に気づいて

亡くなったことの報告と今までの感謝を

私たちに伝えてくれました。

私はそのツイートに気づかなかったのですが

別の友達が私が気づいていないことを察して

わざわざ教えてくれました。

 

気づかなかったら、

ずっと知らないで過ごしていたら

ほんとうに悲しくて寂しいことだったので

知れて、よかった、ありがとう、

そう思いながらも、

ずっと実感がなくて、

ただ漠然と

「もう会えないんだ」

って思いました。

 

今まで私は

周りで人が死んだことはあまりなくて

小さい頃に

ひいおじいちゃんが亡くなった時は

92歳だし、認知症だったし、

そこまでたくさんお話したり

したわけではなかったので

なんとなく受け止めていました。

 

ひいおじいちゃんが亡くなっちゃったことより

おばあちゃんがずっとずっと泣きながら

必死にやらなければいけない

いろんなことをこなしていたことの方が

鮮明に覚えています。

いつだってニコニコして

マシンガントークを繰り広げているおばあちゃんの、

初めて見た涙で、

(ああ、自分の親がなくなるって

とてつもなく辛いことなんだろうなあ)

と小さい私は思っていました。

 

そして、それ以降で

はじめて、

身近な人が亡くなりました。

 

彼と私はライブ仲間で、

でも説明しづらいよくわかんない関係で、

仲いいのかってきかれたら

首を傾げるけれど、

おそらく仲は良くて、

彼はだる絡みがしつこくて

いかついタトゥー入れてるくせに

へたれみたいな性格でなのに打たれ強くて

少しめんどくさい性格だったので

私は彼のことを邪険に扱ったり、

雑に扱ってたり、

でもそんな私を受け止めてくれたし、

たまにTwitterをブロックしたり、

でも2人でライブも行ったり、

わがままにも付き合ってくれて、

同じライブにいるのに合わないようにしたり、

仲直りしてライブいったり、

好きなものを共感したり、

なんだかんだ私は彼のことを尊敬してたし

仲間として好きだった。

 

彼は私にフェスに連れ出してくれて、

フェスの楽しさを、

もっと言えばライブで暴れる楽しさを

教えてくれたし

音楽ってほんとに最高で、

そんな音楽やそれを愛してる仲間に出会えて

ほんとうに生きてるって素晴らしいって

そう思わせてくれるきっかけを

つくってくれたのも彼で

かれがいなかったら

今の私はいなかった。

 

大げさじゃなくて、

ほんとにそう思う。

 

そんな人に、もう二度と会えない。

 

雑に扱ってたけど、

意外と好きだったよって、

そんな気持ちを伝えることをもできない。

 

亡くなるって、

いなくなっちゃうって、

そういうことなんだなって。

 

じわじわと実感が迫ってきて、

 

心にぽっかり、

 

ぽっかり穴が空いた。

 

もしもう1度会えたら、

次は優しくしてあげよう

 

なんて、

 

そんなことは思わないし、

そんなの私と彼のこの曖昧な関係には

そぐわないなあって思う。

 

けれどやっぱり、

もう1度会いたいって思ってしまうし

 

次にライブに行ったら、

彼の霊も遊びに来てて、

「ありがとう」が、

「大好きだよ」が伝わるといいな、とか

そんなバカげたことを考えている

今日このごろです。

 

ぽっかり。

 

ぽっかり。

blue bottle coffee

昨日、冷蔵庫の中に

ブルーボトルコーヒーの袋を見つけました。

 

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(あっ、飲んでみたかったやつ…)

 

中身は、珈琲豆。

 

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(…ん?)

 

我が家に、

コーヒーミルなんてものはありません。

珈琲豆を挽くなんて文化、ありません。

 

ということで、

さっそくコーヒーミルを

お母さんがAmazonで頼んでくれて

 

今朝、届きました。

 

カリタの電動コーヒーミル。

 

初めて珈琲豆を挽いて、

コーヒーを飲む。

 

そして、

飲んでみたかったブルーボトルコーヒー

 

 

私の中で、

美味しいものは一番美味しく食べる。

というモットーがあります。

(実行できない時もありますが)

 

ということで、

コーヒーに合うお菓子を作ろう!

 

ってコーヒー1杯飲むためだけに

わざわざスコーン焼いちゃいました。

 

紅茶とホワイトチョコのスコーン。

 

コーヒーも豆を挽いて、

丁寧にドリップ。

 

少し酸味があるけれど、

飲みやすくて美味しいコーヒーでした。

 


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美味しいコーヒーと、

 

美味しいスコーン。

 

 

最高ですね。

ひと手間で、幸せなひとときが、

もっと幸せなひとときになる。

 

今日は朝から雨で気分が上がらなかったけど、

小さな幸せで今日1日頑張ろうって思える。

 

 

今日もわたしははっぴーです。

 

 

本の街

昨日は神保町来たついでに、

ずっと行ってみたかったカフェに行こう。

 

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と思ったら、休業日。

日曜休業のカフェって多いんですね。

 

そのままフラフラと


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別のカフェ行こうかなと思ったけど

高くてやめて、

 

フラフラと


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オシャレな、昔ながらな感じのお店が、

たくさんたくさんありました。


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あと、本屋さんがハンパなく多い。

本屋さんの街なんですかね。

 

神保町のサイトを見たら、

世界一の本の街、神田神保町って書いてありました。古書店が少なくとも176店あるみたいですね。驚き。

 

 

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明治っぽい感じの建物。があったり。

 
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この季節は桜が綺麗ですね。

 


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あるいてたら皇居(?)までつきました。

桜と門が、とてもよく合います。

 

そのまま竹橋から帰りました。

 

 夜は、久々にお弁当もつくりました。

今日のランチです。これから食べます。


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ちなみにこの神保町は古本の街として広く知られているそうですが、特に古書店が集中しているのが、靖国通りやすずらん通り。街に漂う古本の独特な香りから、環境省の「かおり風景100選」に選ばれたことからも、その品揃えの豊富さがわかろうというものです。新刊を扱う大きな書店も何軒か存在します。また、神保町には学生街としての顔も。神保町から御茶ノ水駅にかけての一帯は明治大学日本大学などいくつも大学があることから、「日本のカルチェ・ラタン(パリ市内の学生街地区)」と呼ばれています。

この街の古書店で独特なのが、それぞれの店が専門分野を持っていること。街をめぐれば文学や哲学、社会科学、演劇、スポーツなど、ほとんどすべてのジャンルの本に出会えます。2007年に、靖国通り沿いに「本と街の案内所」ができて、本探しが楽になりました。でも、もともと、お客さまが本を探しに来られてお目当てのものがないときは、ほかの店を紹介するのが当たり前。よほど忙しくない限り、どこの店もそうしていて、競合ではなく、共存しているのだそうです。

素敵ですね。

 

では。